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        ルーホッラー・ムーサヴィー
              ホメイニー

             
       ヴェラーヤテ・ファギーフ論
   
    (イスラーム統治論)                                     

 
                       
                   
 
                 
 
 
 
                   富田 健次 翻訳
 
 
 
 
 
                  
 
 
 
 
 訳序
  時代背景
   イランはカージャール朝(1785-1925年)期に西洋列強によって一連の軍事的敗退をこうむり、カピチュレーション、即ち治外法権を強い、関税自主権を認めないと言った条項を含む不平等条約の締結を余儀なくされて、次第に半植民地状態と化した。財政的に窮乏したカージャール朝国王は、たとえばイラン国内の煙草利権をイギリス人に売り渡す、あるいは関税収入をロシアからの借款の抵当とするために税関長にベルギー人を採用するなど、民衆の利害を無視した窮余の策をとった。これに対するイラン民衆の反発は前者に対しては煙草ボイコット運動(1890 -1)、後者に対しては憲法制定を求めた立憲革命運動(1905-9)として現れ、それぞれ煙草利権の売却撤回や憲法制定に至らしめた。にもかかわらず、西洋列強とくに帝政ロシアとイギリスによる締め付けがさらに強まり、両列強による分割寸前で第一次世界大戦を迎える。しかし、第一次世界大戦中に帝政ロシアがロシア革命で帝国主義政策を放棄したことで、情況は一変した。イランを巡るイギリスと革命ロシアとの新しい敵対関係の狭間を縫って、一兵卒から身を起こした軍人が領土を保全しカージャール朝に代わって新しくパフラヴィー朝を興すことになる(1925/6)。
  この新国王レザー・シャーは近代兵器を駆使して国内を平定するとともに、強権でもって一連の近代化西洋化政策を推進し、もって西洋国際体系の下での独立国家の建設に向けて努力した。たとえば、司法体系を脱イスラームかつ西洋化させることにより、西洋諸国から課せられた治外法権から脱し、カピチュレーション条項を含む不平等条約を撤廃させるなどである(1928)。当時、治外法権から脱して西洋列強から国際法上の一人前の主体として認められるには西洋の法を導入した国内法の整備が前提条件であった。パフラヴィー初代国王は西洋国際体系の下での独立国家の建設に向けて努力するかたわら、専横な専制君主としての性格も強めたが、第二次世界大戦の勃発でドイツに対してソ連とイギリスが手を結び、両軍がイランに進駐したことで退位を余儀なくされた(1941)。
  若くして王位を継いだ第二代国王モハンマド・レザー・シャーは、しばらくは実権を掌握できず、当時世界的に拡がりつつあった反帝国・民族主義の波に翻弄された。民族主義の旗手モハンマド・モサッデグはソ連の石油利権要求を終戦直後1947年)に退けると、返す刀でイギリスがイランに持つ石油利権に狙いを定めた。彼は首相に就任するとアングロ・イラニアン石油会社の石油施設を国有化するとともに、国王と抗争して彼を国外に脱出せしめた。しかし、イギリスの経済制裁で窮したモサッデグがソ連に傾斜することをアメリカは懸念し、アメリカの介入によるクーデターでモサッデグ政権は倒され、国王が国外から復帰する(1953)。
  以降、国王は当域における西側陣営の堡塁役を演じ、たとえばソ連包囲網形成のための中央条約機構( C.E.N.T.O.) への加盟(1955)、また、アメリカC.I.A.ならびにこのアメリカと密接に繋がるイスラエル情報機関の支援を受けた秘密警察(SAVAK)の設置(1957)、そしてアメリカの意向を受けた農地改革を実施した(1963年白色革命)。こうして国王はアメリカを後ろ盾にすることで対内的にも足場を固めて、延期されていた戴冠式(1967)、さらに古代ペルシアの遺跡ペルセポリスに世界から賓客を招いて催された帝政2500年祭(1971)を挙行し、国王としての自信を誇示するとともに、次第に先代国王同様に専制君主へと変貌した。
 同時にこの2500年の数字がイスラーム以前の古代アケメネス朝以来の帝王制の伝統に自らの正統性を求めていたことを示すように、彼はイスラームのから脱することと近代化(あるいは西洋化)を先代国王の政策を継いで推進した。宗教界はかつて担っていた教育、司法の分野を近代的(西洋的)義務教育制度や大学、また裁判所に奪われ、その収入源もこれらからの収入の喪失に加えて農地改革でも打撃を受けていた。
 この統治のありかたを、後にハータミー大統領は国際関係の絡みから、端的につぎのように表現している「歴史を通して(イランの)人民は軽侮されてきた。国王たちや統治者たちは、(その統治の拠り所を民意にではなく)軍事力や抑圧手段に頼ってきた。残念ながらこの150年、この軍事的権力は(さらに)外国の庇護にも頼ることになった。つまり、統治者たちは国内で(国民の利益ではなく)よそ者たちの利益を、(軍事力や抑圧手段という)力の行使でもって保護したのである」注1
 
  近代化(西洋化)と脱イスラーム化、専制君主化の傾向は1973年、第四次中東戦争に伴うオイルショックによって石油収入が4倍に急増したことで一層拍車がかかった。しかし、これは貧富の差の急激な拡大、旧来の社会道徳観の崩壊と価値混乱、農地改革の煽りで離農した農民による都市移住、オイルマネーの環流を求めて殺到した先進工業国の製品やノックダウン工場製品のための消費市場化、などの諸問題を生んだ。一連の問題は1970年代後半の景気後退とともに社会を混乱化させて、反国王の一点にほとんどの国民を結集させ1979年2月のイラン革命へと導いた。
  ホメイニー師は当時、どの程度まで国内でその存在が知られていたかは疑問である。しかし、ホメイニー師を揶揄中傷した新聞記事(1978年1月8日付け)が一連の反国王運動激化の端緒をなし、また、国王が反国王運動に見せた譲歩に一切応ぜず、頑固なまでの非妥協的姿勢でもって王制崩壊と革命成就に導いた過程の中で、その指導者としての地位を不動のものとした。こうして、彼を最高指導者とし、彼の弟子であるイスラーム法学者たちを中核とした「イスラーム法学者による統治体制」が、革命後の諸々の政治勢力との抗争を経て、1981年秋に確立することになる。
 
  ホメイニー師
   ホメイニー師注21902年9月24日、イラン中央部のホメインで生まれた。煙草ボイコット運動(1890-91)と立憲革命(1905-09)の間にあたる。そのころのホメインは人口2000人程度の町で、ザクロス山脈の雪解け水を利用する灌漑施設に潤された耕地や果樹園、牧草地に囲まれ、また、南方のペルシア湾岸とテヘランを結ぶ通商路の一つの上に位置していた。彼の生家は町の東端に位置する、広大な庭園のある物見櫓付きの二階建ての家であった。
  ホメイニー師の家系は、第七代イマーム・ムーサー(通称イマーム・カーゼム799年没)を先祖に持つセイエド(預言者ムハンマドの血を引く家系)であり、彼の祖先はもともとイラン北西部のニーシャーブールにいたが、18世紀初めにインドのラクノウ近くにあるキンツールの町に移り住んだと見られている。ホメイニー師の祖父はこのインドの町で生まれたが、1830年頃、現在のイラクにあるシーア派の聖地ナジャフに巡礼と修学のために出かけ、そこでホメイン近くの町に住む地主(キャマレイー)と知り合って親交を深めた。この友人の薦めに従ってイランに戻った祖父は1839年頃、ホメインに家宅と庭園を買ってここに落ち着いた。ホメイニー師の父モスタファー(1856-1903年3月 )はこの祖父が三番目に娶った妻の子であった。この父 は現在のイラクにあるナジャフとサーマッラーでイスラーム法学を修め、ムジュタヒドすなわちイスラーム法の解釈とその法見解を述べる資格を持ったイスラーム法学者となる。ホメイニー師はこの父の子供、男女三人ずつ計六人の三男として生まれた。しかし、その五ヶ月あまり後に、父は近くの町アラークへの道中で襲われ亡くなった。地元の無頼漢あるいは権勢者との抗争が背景にあったとされる。
  寡婦となった彼の母は家宅の一部を当地の副執政官の事務所に貸し、おば、乳母と共に孤児となったホメイニーを育てたが、ホメイニーが16歳の時、彼は母とおばを相次いで失い、兄モルタザー(アーヤトッラー・パサンディーデ)の手によって教育を受けた。19歳の時、彼はアラークの町に赴き、アブドゥルキャリーム・ハーエリー師(Sheykh 'Abd ol-Karm ナア'er 1859/60-1936/7)に師事する。パフラヴィー朝が正式に発足する数年前である。アブドゥルキャリーム・ハーエリー師はまもなく、コムに移り、コムをシーア派学府の一大拠点に再興することになるが、この師に従って、ホメイニーもコムに移った。ここで彼は法学のみならず倫理や神秘哲学(神智学、'erfn)にも造詣を深めることになる。
  この期、彼はパフラヴィー朝初代国王レザー・シャーの西欧化近代化政策と、その専横的な側面、例えば不明瞭な罪科で旧臣や旧来からの有力者たちを獄死させ、また名ばかりの価格で土地の売却を強要し農地を収奪して自ら巨大地主へと変貌するなどの側面をつぶさに見聞することになる。こうして彼は1943年、「秘密の顕現(Kashf al-Asrr)」と題する書を著し、パフラヴィー朝の統治を批判する。第二次世界大戦中でレザー・シャーが退位した数年後にあたる。
  コムでは1937年に亡くなったアブドゥルキャリーム・ハーエリー師に代わり、サドル師、ホッジャト師、ホンサーリー師がその後の学府を運営していたが(後部本編の底本172頁部分を参照のこと)、1944/5年の冬からボルージェルディー師が法学者の最高権威(マルジャエ・タグリード)として学府に君臨することになった注3。ボルージェルディー師は総じて政治問題には介入しない姿勢を持ち、彼の権威の下で沈黙していたホメイニー師が政治問題で発言するようになるのはボルージェルディー師(1875-1962年)の没後である。
  196210月、国王は地方議会議員の資格から男性であることとムスリムであることの条件を除去する法令を発布した。これはシーア派で異端視されるバハーイ教徒が公的分野に進出するのを認める意図があると見なされ、ホメイニー師はほかの宗教指導者たちと共にこれに激しく抗議して、法案を撤回させた。
  翌1963年1月(26日)、国王は農地改革など一連の社会改革を白色革命と称して、国民投票に訴えた。これをホメイニー師は欺瞞であると非難した。これに対して国王は同3月(22日)、コムの宗教学院( マドレセ) に軍を投入した。宗教学徒多数が殺され、学院は略奪されたが、ホメイニー師は国王を非難し続けた。国王の抑圧的性格、アメリカへの従属姿勢、イスラエルとの協調などがその非難対象であった。この年の6月(3日)、 第 3代イマーム・フセインの殉教追悼行事の日(アーシューラー)に際して、ホメイニー師は国王を非難し、国民によってやがて追放されることになろうと警告した。二日後、彼は逮捕され、これに抗議した民衆デモが各都市で官憲と衝突して多数の死者を出した。この日はイラン歴の日付からホルダード月15日として記憶されることになる。宗教界を初めとする助命嘆願を受けて、国王は1964年4月〔6日〕、彼を釈放し、政治に介入しないことに彼が同意したと新聞に報じさせた。しかし、釈放されたホメイニー師はこの報道を直ちに否定し、さらに1964年10月、イラン在留のアメリカ軍人とその家族の地位協定(つまりアメリカ軍人とその家族がイランの領土内で犯す犯罪に対して治外法権を認める法)が議会を通過すると、これをイランの独立と主権を侵すものとして非難した。国王はついにホメイニー師を国外に追放することを決め、同11月(4日)再逮捕した。トルコのアンカラ、ブルサを経て、ホメイニー師は196510月イラクにあるシーア派の聖地ナジャフに入った。
  ナジャフでホメイニー師はイラン国内の情勢に応じた声明を定期的に出し、これらは密かにイランに持ち込まれ監視の目を潜って地下回覧された。また、彼はイランやそのほかの人々の訪問をナジャフで受ける一方、ムスリムたちがメッカに集う巡礼の機会を捉えてメッセージを送っていた。
 イスラーム統治論
   こうした情況の中で彼は、1970年1月21日から2月9日にかけて13回に分けてヴェラーヤテ・ファギーフ(イスラーム法学者の統治)を論じた。第二代国王の戴冠式(1967年)とペルセポリスにおける帝政2500年祭(197110月)の間に当たる。ちなみに宗教学院(マドレセ)の教育課程は、初級(モガッダマート)、中級(ソトーフ)、上級(ハーレジ)の三段階に分かれているが、中級すなわちソトーフの講義においてである。また訳者は2000年夏にコムのエマーム・ホメイニー遺作整理出版協会に赴いたとき、この講義に出席してその最初の出版を行ったと言う初老のウラマーにあったが、彼によれば、講義はアラビア語ではなく、ペルシア語で行われたという。
  12イマーム・シーア派では、預言者ムハンマドが最後のメッカ巡礼を行った帰路、ガディール・フンムの泉で休憩し、ここでムハンマドは自分の後継者に彼のいとこで娘婿のアリー(スンナ派のいわゆる第四代正統カリフ)を神の命令により指名したと見なす。もっとも後継者といっても、ムハンマドが最後の預言者であるとされているので、信仰共同体(ウンマ)の指導者としての後継者である。したがってスンナ派が正統カリフと見なす第一代カリフ・アブー・バクルからウマル、ウスマーンを経て第四代カリフ・アリーに至る4人のうちの、アリーに先行する3人のカリフはアリーの正当な地位を奪った簒奪者であるとシーア派は見なす。この指導者としての地位はアリーの後、彼の子孫に前任者の指名を介して伝わり、第十二代目まで続いたとし、彼らをイマームと12イマーム・シーア派は呼ぶ。もっとも、イマームすなわち指導者と呼んでも、第四代カリフとしてのイマーム・アリーを除けば、ウマイヤ朝やアッバース朝の支配下で、実際の統治を担ったイマームはいない。
  第十二代イマームは幼少の時に姿を隠し(874年小お隠れ)、しばらくは特定の個人をその代理に置いていたが、この特定代理も第四代で途絶えた(941年大お隠れ)とされる。この大お隠れの後、ウラマー(イスラーム知識人たち)一般がお隠れイマームの代理であるとする見方が生じた。当初はイマームが持つとされる権限の一部を主張したに過ぎなかったが、漸次拡大解釈される傾向を持ち、19世紀のカージャール朝期には、政治面の代理は君主が担い、宗教面はウラマーが担うとする見方が一般的となった。これからさらに歩を進めて、単に宗教面のみならず政治面も含めてウラマー、その中でもイスラーム法学者たちがイマームの代理であり、指導者の地位に立つと論じたのがホメイニー師のヴェラーヤテ・ファギーフ(イスラーム統治)論である。ちなみにホメイニー師自身もこの論を説くまでは従来の一般的見方の立場に立ち、たとえ彼が国王の施政を非難しても、君主制自体を否定はしていなかった。つまり、ホメイニー師はこの論でウラマーがイマームの代理であるとする見方を論理的に完結させたとも見ることができる。
  しかし、ホメイニー師自身が本論で述べているように、彼に先行して同じ趣旨を論じた者もいて、決してこの論が彼の独創であったわけではない。
 また、イスラーム法学者がイマームの代理であると言っても、イマームの権限全てをホメイニー師が主張しているわけでもない。預言者ムハンマドは預言者としての地位と信仰共同体の指導者としての地位を併せ持っていた。このうちの指導者としての地位をイマームたちが継承したとシーア派は見る。この指導者としての地位はさらに二つに分けられる。一つは(自然界など)創世的神為的分野(omr-e takvn)における監督・指導者の地位であり、もう一つは(任官や制度など)人為的、あるいは人間の理性が作り出す分野(omr-e e'tebr-ye 'aql' )における監督・指導者の地位である。イマームたちは預言者ムハンマドからこの二つの分野の指導者としての地位を継承していたが、このうちの後者すなわち、人為的分野(omr-e e'tebr-ye 'aql' )のみをイスラーム法学者たちはイマームから継承したとする。
  ホメイニー師のヴェラーヤテ・ファギーフ論は革命後のイラン憲法に織り込まれて、新体制の指導原理となり、彼は最高指導者となった。ホメイニー師は1989年6月3日亡くなり、その後を彼の門下生であり新体制(ヴェラーヤテ・ファギーフ体制)の下で大統領を務めていたハーメネイー師が継いで最高指導者となった。
  1997年、最高指導者ハーメネイー師の下で8年間大統領を務めたラフサンジャーニー師が任期満了で大統領職を降り、ハータミー師が大統領に就任した。革命後20年近くを経て、革命を知らない世代や女性たちの圧倒的支持を得ての当選であった。このハータミー師はイスラーム法学者であるとともに、西欧の政治思想に造詣が深く、市民社会の創設、法の支配、言論の自由など西欧的価値概念を説いた。このうち、とくに言論の自由を認める動きは現状に不満を抱く若い世代を中心にして、現体制に対する疑問の声を顕在化させ、革命後約20年、ホメイニー師没後約10年を経て現体制(ヴェラーヤテ・ファギーフ体制)は試練に直面しつつある。
  イラン革命当時、世界の歴史を西洋の歴史展開を基準に測り、革命や新たな国家樹立は西欧の政治理念に立脚するのを当然視する風潮のなかで、非西欧的理念であるイスラームに立脚したイラン革命とその政治理念は当時の人々を当惑させ、その常識を覆すものであった。しかし、イラン革命がはたして西洋を範としてきた近現代世界の歴史の流れを画すものであったのか否か、その答えはもちろんイランにだけ求めることはできないが、イラン自体の今後の展開如何にかかっている、とまでは言えなくとも重要な意味をもつことも否定できない。かかる観点からもイランの今後の展開と行方を見るにおいて、その基点としてのホメイニー師のヴェラーヤテ・ファギーフ論は重要であると考える。
  
  
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ヴェラーヤテ・ファギーフ論
 (イスラーム統治論)
 
【目次】
序論 14
統治樹立が必要である理由 25
 執行機関の必要性 25
 使徒の言行とありかた 26
 法規範の執行を継続する必要性 26
 イマーム・アリーのありかた 28
 イスラーム法の質と形 28
    例その1-財政の法規範 29
    例その2ー民防衛の法規範 31
    例その3ー権利の擁護と刑罰の法規範 32
 政治革命の必要性 32
 イスラーム団結の必要性 33
 虐げられ奪われし人々を救済する必要 34
 伝承から見た統治の必要性 35
イスラーム的統治方法 39
 ほかの統治方法との違い 39
 手綱を取る者の条件 43
 イマームお隠れ時代の手綱を取る者の条件 45
 ヴェラーヤテ ファギーフ 46
 人為界のヴェラーヤト 46
 創世的〈神為界の〉ヴェラーヤト 49
 統治は崇高な諸目標を実現するための手段である 50
 統治の崇高なる目標 51
 これらの目的を実現するために必要な特性 52
伝承によるヴェラーヤテ・ファギーフの立証 53
 使徒の後継者は公正なる法学者たちである 53
 この伝承の本文について 59
 伝承の意味 59
 預言者たち召命の目的とその任務 62
 イスラーム法学者は法の施行と軍の指揮、社会の管理運営と国の守りや司法において、預言者(peighambar)の信頼を受けた者である 64
 法に合致する統治 65
 裁き人の地位は誰に帰属するか 69
 裁きごとは公正なる法学者の下にある 69
 社会の出来事〈問題〉を誰に相談するのか 72
 コーランの節 76
 ウマル・イブン・ハンザラのマグブーラ  81
 不正な権力に判決を求めることの禁止 82
 イスラームの政治面の指令 83
 諸事の拠り所はウラマーである 84
 ウラマーは支配者に任じられている 84
 はたしてウラマーは統治の地位から外されているのか 87
 ウラマーの地位は常に保持される 88
 ガッダーフの真正〈なる伝承〉 89
 アブール・バフタリーの伝承  90
 伝承の検討 91
 明文によるヴェラーヤテ・ファギーフの確認 99
 第八代イマーム・レザーの法見解による傍証 99
 そのほかの傍証 100
闘争案-イスラーム統治樹立のために 121
 教宣と啓蒙に奉仕する集団社会 125
 アーシューラーを作り出せ 126
 長き闘いでの抗い 127
 宗教学院界の改善 130
 植民地主義の思想と道徳の根絶 131
 似非聖人の改善 137
 宗教学院界の浄化 139
 宮廷〈お抱え〉の坊主どもを追放せよ 141
 不正なる諸統治を打倒せよ 143
 
  序論
  「ヴェラーヤテ・ファギーフ〈イスラーム法学者の統治と指導〉」を論題とすることは、それに関連するいくつかの諸事や諸問題について述べる良き機会である。〈というのも〉「ヴェラーヤテ・ファギーフ」〈自体〉はそれを考えるだけで確証され、論証の必要がない論題であり、イスラームの教義('aqyed)と法規範(akm)を少し知っている者は誰でも、「ヴェラーヤテ・ファギーフ」について考えれば、ためらうことなく認め、これが自明であり必須(・/font>arr)であると判るからである。今日、ヴェラーヤテ・ファギーフに関心が払われず、論証が必要であるのは、主としてムスリムたちの社会状況、とくに宗教学院界ouze)注4の現状に原因がある。我らがムスリムたちの社会と宗教学院界の状況には歴史的背景があり、それについて述べたい。p.5(p.4)
  初めイスラーム運動はユダヤ教徒の問題に直面した。(メディナの)ユダヤ教徒がまず、反イスラームの宣伝と陰謀に着手し、ご存知の通り、現在までその尾は引きずられている。この後、別のグループがこれに加わったが、これはある意味においてユダヤ教徒よりも悪質であった。彼ら植民地主義者は300年あるいはそれ以上前から、イスラーム諸国に進出し、彼ら植民地主義の目的を達成するにはイスラームを滅亡させる基盤づくりが必要であると見なした。彼らが目的としたのは人々をイスラームから引き離し、キリスト教を広めることではなかった。というのも彼らはキリスト教もイスラームも信じてはいないからである。そうではなく、彼らの物資的利益の前に立ちふさがり、その政治権力や物資的利益を危機に落としめているのは、イスラームとその法規範ならびに人々のイスラームへの信心であることを、時間の経過のなかで、また、十字軍の戦いの中で看取したからである。このため、彼らは多様な手段をもって反イスラームの宣伝と陰謀を実施した。
  宗教学院界で養成された布教者、諸々の大学や政府の宣伝機構、印刷出版所における彼らの代理人たち、植民地主義者の諸政府に奉仕する東洋学者たち、皆が皆ともに手を取り合って、イスラームの真理を改竄し、数多くの人々や教養ある人たちをしてイスラームを見失わせ、過ちを犯させるに至っている。イスラームは真理と正義を求める闘士たちの宗教である。自由と独立を求める人々の宗教である。反植民地主義の人々と闘士たちの宗教である。しかるに、彼らはイスラームを異なった形で紹介している。イスラームについて一般民衆に誤った考えを抱かせ、宗教学院界で不完全なイスラームの姿を提示するのは次の意図による。すなわちイスラームの活力と革命的性格を奪い、そしてムスリムたちが努力すること、運動に従事すること、自由を求めること、イスラームの法規範の施行を求めること、ムスリムたちの幸福を保証し人間としての威信を保った生活を認める統治(体制)を創ること、これらを阻止する意図である。p.6(p.4)
  例えば彼らは次のように宣伝した。「イスラームは包括的な宗教ではない。生活に即した宗教ではない。社会(運営)のための制度や諸法を持っていない。統治方法やその諸法を持っていない。イスラームは単に月経や分娩に関わる宗教である。倫理性も持つが、生活やミ会の運営には値しない」と。
  彼ら植民地主義者の悪意ある宣伝は残念ながら効果をあげている。いまや一般大衆はともかくとして、教育を受けた層は大学人にしろ、多くの宗教学徒にしろ、誤った考えに染まりイスラームを正しく理解していない。人々が異邦人を知らないように、イスラームを知らず、(イスラームは)現世的人々の間で異邦人の状況にある。もしだれかがそのままの姿でイスラームを紹介しようとしても、人々はたやすくは信ぜず、逆に宗教学院界の中の植民地主義分子が騒ぎ立てる。
  イスラームとして紹介されることと、〈本来の〉イスラームとの差がいかほどであるかを少し明らかにするためにコーランや伝承とレサーレイェ・アマリエ〈一般信徒に対する信仰生活上の指針の書注5の間の差について喚起したい。神の法規範の源であり、イスラームの指示命令の源であるコーランや伝承諸書〈すなわち本来のイスラーム〉と、各時代の〈イスラーム法解釈を行うイスラーム法学者こと〉ムジュタヒドや〈ムジュタヒドの最高権威で一般信徒の信仰生活上の拠り所である〉マルジャエ・タグリードによって記されるレサーレイェ・アマリエ(すなわちイスラームとして紹介されているもの)とは包括性や社会生活に及ぼす影響力の点でまったく異なっている。コーランにおいて、社会問題に言及した箇所と〈社会問題ではなく個人的次元に属する〉宗教儀礼('ebd)の章句の比は百対一以上である。約50巻からなり、すべての法規範を包含する伝承の1セット中、3巻ないし4巻が宗教儀礼ならびに神に対する人間の義務に関連し、また、一部の法規範は道徳に関連しているが、残りは全て社会・経済・法律・政治・社会運営に関連している〈つまり、本来のイスラームは個人次元の信仰よりも、社会問題により多く係わるものである〉p.7(p.5)
  あなたたち、おそらくイスラームの将来に有益な若き世代は、私が述べる簡潔な論題を追求しながら、イスラームの諸法と制度を紹介すべく生涯を通して力を尽くさねばならない。より有益であると思われれば、活字にしろ、口頭にしろ、〈たとえ〉いかなる形であれ、イスラームがその初めからいかなる障害に直面し、また、今日いかなる敵意と苦難に直面しているかを人々に知らしめられよ。イスラームの本質と真実が覆い隠されたままにしてはならない。(真実ではなく名目的な)キリスト教と同じくイスラームも神と人民の関係〈つまり社会と関わりを持たない関係〉についてのいくつかの命令であり、教会とモスクには差違がないと人々が考えないようにしなければならない。 
  ヨーロッパが沈黙し、その住民が野蛮な状態で日々を過ごし、アメリカは半開化の赤色人たちの土地であった頃、イランとローマの広大な国家においては専制支配、貴族制、差別制の下にあり、専横なる人たちの支配下で、人々や法による統治の痕跡はなかった。しかし、神は使徒を介して法を送り、人間はその偉大さに驚いた。それはすべてのことに法と作法をもたらした。懐妊する前から墓場に行くまで、人間のために法が制定された。宗教儀礼('ebd)の務めに法があるように、社会問題・統治問題のためにも法と道と様式がある。イスラームの法は進歩的で完全で包括的である。後世、様々な法の分野で編纂された分厚い書籍は司法、民事、〈コーランすなわち神によって規定された処罰こと〉ハッド刑、〈同害報復の刑〉キサースから、との関係、戦争と和平の規定、国際公法私法に及ぶが、これらはイスラームの法規範や法規のほんの一部に過ぎない。重要な問題でイスラームが責務を定めず、それに指示を下していないものはない。p.8(p.6)
  外国の手先は、イスラームには価値がなく、それは月経と分娩に関する法規範の断片であって、坊主khond)どもは月経と分娩の問題に関わり合っているべきだと言って、ムスリムたちや我らが若きムスリム知識人たちをイスラームから離反させようとそそのかしてきた。
  実際、その通りである。イスラームの世界観や法や教理を紹介する気持ちを持たず、彼らが指摘する類のことに大半の時間を使い、イスラームのほかの分野の書物を忘れている坊主どもはかかる苦情の対象となり非難されてしかるべきであって、彼らにも落ち度がある。はたして外国人たちだけが責められるべきことであろうか?。もちろん、外国人たちは自分たちの政治経済的な目的のために、数百年前から準備を行い、宗教学院界の怠慢を介して成功を収めている。我々精神的指導者(rケニアn)たちの間には知らずして彼らの目的に手を貸してかかる状況に至らしめているものがいる。p.9(p.7)
  また、彼らは例えば司法はあるべき姿をしていないといって、イスラームの法規範は不完全であると唆す。こうして唆しや宣伝をしたあとで、イギリスの手先はその主人の命令によって立憲の基本を弄び、--手許にある証拠と文書によれば--人々をだまして、自分の政治的な犯罪の本質を隠す。〈20世紀初頭カージャール朝のもとで憲法の制定により立憲君主制を成立させたイランの〉立憲運動の初め、人々が憲法制定を求めたとき、ベルギーの法典をその大使館から借り出し、その名を伏せるが何人かが、それに基づいて憲法を起草し、不足分はイギリスとフランスの法典から借りて、いわゆる「修正」をし、また、(mellat)を欺くためにイスラームの法規範の一部を付け加えた。憲法は彼らから借用し、我がに押しつけたのである。君主制(スルターン制)や世襲制などに関する憲法条項、その補正条項などは、そのどこがイスラーム的なのか?。すべてこれらは反イスラーム的であり、イスラーム法とその統治方法に反している。君主制と世襲制はイスラームが否定したものであり、イスラーム初期にイランと東ローマ、エジプト、イエメンにおいて廃止したものである。使徒は東ローマ皇帝(ヘラクレスA.D.575-641年〉)とイランの帝王〈ホスロー2世 A.D.589 -628 年に書簡を送り、帝王支配、皇帝支配をやめて、彼らへの絶対服従と礼賛を神の下僕たちに義務づけず、人々が唯一なる神、すなわち真の王を礼賛することを認めるように呼びかけた。君主制と世襲制はイマーム・フセインがそれを阻止すべく立ち上がり殉教した、無効にして邪悪なる統治方法である。彼は〈ウマイヤ朝第二代カリフ〉ヤズィードの世襲の下に服せず、彼の王政を認めないがために立ち上がり、すべてのムスリムたちに蜂起を呼びかけたのである。これら〈君主制と世襲制〉はイスラーム的ではない。イスラームには君主制も世襲制もない。イスラームが不完全であるというのが、もしこの意味であるならばイスラームは不完全である。同じくイスラームには利子、それに結びつく銀行、アルコール飲料の販売、売春に関しても法規がない。その基を禁じているからである。植民地主義の妾の手先である支配者層一団はイスラーム諸国でこれらを流布させようと望み、イスラームは不完全であるとして、イギリス、フランス、ベルギー、最近はアメリカからの法の導入を余儀なくされている。このような不当なことを整備するために法規がイスラームにないのはイスラームの完全さのゆえであり、誇りとするところである。p.10(p.9)
  立憲運動の初期にイギリス植民地主義政府が行った〈憲法制定支援の〉陰謀には二つの目的があった。一つはその時点で明らかになったことであるが、イランにおける帝政ロシアの影響力を排除すること。もう一つは西洋の法を導入することによって、イスラームの法規範の施行を阻止することであった。外国の法を我らがイスラーム社会に押しつけることは多くの問題と弊害の根元となっている。裁判所にいてその事情に明るい人は、司法法規や規定に不満を持っている。今日のイランや近隣国で誰かがもし、問題に直面すれば、その問題解決には一生を費やさなければならない。若かったとき有識な弁護士に会ったが彼は次のように言っていた。二手の間の訴訟のために私は一生を通して法律問題に関わり、司法機関の間を往来し、さらに息子がその後を続けるだろうと。今日まさしくその通りになっている。ただし、影響力を行使すれば、速やかに、しかし、不正に取り調べられて終わる。今日、司法法規は人々にとって仕事や生活への障害、弊害、非合法的な活用以外の何ものをも、もたらさない。正しい判決を手にする人は少ない。訴訟解決にはあらゆる側面に配慮し、単に正しい権利をすべての人が手にするだけでなく、人々の時間、生活や仕事のありかたを考慮し、できるだけ簡潔速やかになされなければならない。p.11(p.9)
  往事、イスラーム法判事が二日三日のうちに解決した訴訟が今日20年を費やしても解決しない。この間に若者、老人、貧者は毎日朝から夕まで裁判所に出かけ、廊下やデスクの間をさすらわなければならない。機敏で賄賂を使う者は不正かつ速やかにことを進める。そうでなければ、死ぬまで困惑状態に留まる。往々にして書物や新聞で「イスラーム刑法は粗野な規範である」と記され、恥知らずの極みにも次のように記す者もいた「アラブからきた粗野な法規範であり、かかる法規範をもたらしたのはアラブのもつ野蛮性である」と。p.12(p.10)
  何を考えているのか驚く。片方でもし10グラムのヘロインのために、数人を殺してもこれは法であるという。私が知ったところでは、しばらく前に10人、最近では一人が10グラムのヘロインのために殺された。堕落防止の名目で非人間的な法を制定する場合は粗野ではないのか?。ヘロインを売って良いとは言っていない。しかし、その刑罰が違う。防止しなければならないが、その刑罰はそれにふさわしいものでなければならない。飲酒に80回の鞭打ちは粗野で、10グラムのヘロインで人を処刑しても粗野ではないというのか?。社会に見られる堕落の多くはこの飲酒によっている。交通事故、自殺、殺人、こうしたことの多くは飲酒がもたらした結果である。ヘロイン使用者はアルコールの方が中毒症状がひどいというが、それにも関わらず、飲酒は問題とされない。なぜならば西欧がそうしているからであり、それゆえに自由に売買する。見苦しい行為を、それがもっとも明瞭に当てはまることの一つは飲酒であるが、防止しようとして、もし80回鞭打ちすると、あるいは貫通者を100回鞭打ちすると、または〈姦通罪を犯した〉既婚女性や男性を石打ちにすると、惨事だ、なんと野蛮な法令okm)か、アラブに由来するものだと騒ぐ。イスラームの刑法は偉大なる民の堕落を防止するために下された。醜い行為はその裾野を広げて、諸世代を腐らし、若者を堕落させ、仕事を滞らせ、すべてのものが逸楽を追い求めて、その道を開き煽り伝播させるに至っている。今もし、イスラームが若い世代の堕落を防止するために、その一人を公衆の面前で鞭打ちすれば粗野なのか?。p.13(p.11) 
  片方で約15年間ヴェトナムの支配層の主人たち〈すなわちアメリカ〉の手によって殺人が行われ、これにいかほどの予算が使われ血が流されても問題とはされない。しかし、イスラームが人類に有益な法を尊重して戦争や防衛を命じ、腐敗した人を数人殺せば、この戦いはなぜかと声を上げる。
  これらはすべて数百年前に創られたもくろみであり、漸次実行に移されてきた結果である。
  まず、一つの学校がある場所に創られたが、我々は何も言わず看過した。我々の仲間たちも看過し、それを阻止しなかった。これは次第に増えて今日ではあらゆる町や村に及び、我々の子供たちをキリスト教徒や無宗教徒にしている。
  もくろみとは我々を遅れた状況に留め、今の状況のまま、そして不幸な生活のままにしておいて、我々の資源、地下の宝庫、土地や天然資源、人的資源を使うことである。我々が困難に直面し、惨めな状況に留まり続けることを彼らは望んでいる。我らの貧しき人々は不幸な状況に留まり、困窮者の問題を解決しているイスラームの法規範に従わさせず、自分たちやその代理人たちは広大な屋敷に住み安楽な生活をおくろうとしている。p.14(p.12)
  このもくろみの裾野は宗教学院界にまで及び、もし誰かがイスラーム統治やその形態について話をしようとすれば、その真意を隠して話さねばならず、〈さもなくば〉植民地主義にかぶれた者どもの反対に直面する。例えばこの本の第一版が出版されると〈王制下の〉在イラク・イラン大使館が無駄あがきをして、恥をさらしたようにである。今や軍服は正義と男らしさや誇りに反するものと見なされる状況に至っている。我らが宗教のイマームたちは軍人であった。軍司令官であり、戦時体制にあった。歴史を紐解けば判るように、諸々の戦いにおいて、軍服を着て戦場に赴き殺し合った。〈第一代〉イマーム・アリーは頭に甲をいただき、鎧を身につけ、刀を吊した。〈第二代〉イマーム・ハサンや〈第三代イマーム・〉フセインもそうであった。彼らの後はかかる機会がなかったが、さもなくば〈第五代〉イマーム・バーケルもそうであったろう。〈しかるに〉今や軍服を着ることは公正正義に有害であって、着るべきでなく、もし、我々がイスラーム統治を樹立しようとするならば、このターバンと法衣でもって樹立しなければならず、さもなくば公正正義と誇りに反するとされるに至っている。
  これらが〈彼らの〉宣伝活動のうねりがもたらした結果である。そしていまやイスラームにも統治規定があることを我々が努力し証明すべき状況に至らしめている。p.15(p.13)
  これが我らの状況である。外国人たちはその宣伝と宣教師をもってその基盤を用意した。イスラームの政治と司法をすべて施行の場から除去し、それに代えて西欧のものを提示し、もってイスラームを矮小化してイスラーム社会から締め出し、彼らの代理人たちを登用し、悪用しようとしている。
  植民地主義の破壊的腐敗的役割については述べたので、次に我々社会の内部の〈彼らの〉代理人たちについて付け加えたい。彼らは植民地主義者たちの物資的進歩に自ら敗退した者たちである。植民地主義者の国が科学と産業の進歩、あるいはアジア・アフリカの諸民族にたいする略奪と搾取の計略でもって、富を獲得したとき、彼らは自ら敗退したのである。彼らは産業の進歩とは自分の教義と諸法を捨てることであると考えた。彼ら〈植民地主義者〉が月に行くと自分の諸法を捨て去るべきだと考えた!。月に行くこととイスラーム諸法がいかなる関係を持つのか?。社会体制や諸法を相対立させる国家が産業、科学、宇宙競争で互いに競争し、ともに進歩することができるのを知らないのか?。彼らは火星にも銀河系にも行くだろうが、にもかかわらず、幸福や人格的卓越性や精神的高邁さにおいては無力である。自らの社会的問題を解決する力もない。社会の問題や不幸を解決するには信仰、道徳の解決法が必要であり、物資的力や富、自然や宇宙の征服、はその解決に役立たない。資力や物資的力や宇宙の征服にはイスラームの道徳や信仰が必要であり、それでもって均衡がとれ、総体化されて人間に役立つのである。それら〈物資的力や富、自然や宇宙の征服〉が人間の生命の上位に位置するのではない。我々はかかる信仰、道徳、諸法を持っている。人類の生活に関係する信仰と諸法、現世・来世ともに人類の状況改善の根源であるところの信仰と諸法を、誰かがとある場所に行った、何かを造ったからといって直ちに捨て去るべきではない。p.16(p.14)
  植民地主義者たちの宣伝状況は上記の通りである。彼らは我々の敵であって、宣伝活動を行い、我らの社会の一部の人はそうであってはならないにも関わらず、残念ながらその影響に曝されている。「イスラームには統治がない」、「統治機関がない」、「法規範があるとしても、執行機関はなく、結局は立法機関だけである」と植民地主義者たちは言っているようである。これらの宣伝は植民地主義者たちがムスリムたちから政治と統治の礎を奪うための計略の一環である。〈また〉これらの言葉は我々の基本的な教義に反するものである。我々はヴェラーヤト〈統治と指導〉注6を信条としており、預言者注7はその後継者(代理)を任命しなければならず、また任命したことを信じている。〈彼が〉後継者を任命したのは法規範を説明するためであったのか?。法規範の説明には後継者はいらない。預言者自身が法規範を説明した。すべての法規範を書に記して執行すべく人々に与えた。理性的に見れば後継者の任命が必要であるのは、統治のためである。我々は法執行のために後継者を必要とする。法執行者を必要とする。世界中の国々もまた、単に法制定だけでは役には立たず、人類に幸福を保証することはできない。法制定の後に執行が生まれる。法執行権がなければ法制定や統治は欠陥を持つ。p.17(p.15)
  それゆえにイスラームは法を制定しその執行権も樹立したのである。権威者(val-ye amr)は法執行権も担当する。仮に預言者注8後継者を任命しなかったならば、預言者はその使命を終えていないことになる。法規範を執行する必要性、執行権力の必要性と、預言者の使命〈召命〉を達成する上でのその〈執行と執行権力の〉必要性、公正なる体制を樹立することでの〈執行と執行権力の〉重要性は、後継者の任命が預言者の使命完了である理由となっている。使徒の時代には単に法を説明し、伝えるだけではなく、それを執行した。使徒は法の執行者であった。例えば刑法を執行した。窃盗の手を切断し、鞭打ち刑を課し、石打ち刑を行った。後継者〈の必要性〉も、この業務のためである。後継者は法制定者ではない。後継者は使徒がもたらした神の法規範を執行するためにある。ここに統治機関と執行機関の設立と管理運営が必要となる。統治機関、執行機関の設立と管理運営が必要であると確信することは、そのために奮闘努力するのと同じく、ヴェラーヤト〈統治と指導注9〈を確信すること〉の一部である。正しく理解されたし。彼らはあなたたちに敵対してイスラームを悪しざまに紹介している。あなたたちはイスラームをあるがままに紹介されよ。ヴェラーヤト〈統治・指導〉をあるがままに紹介されよ。次のように言われよ。我々はヴェラーヤト〈統治・指導〉を確信し、使徒後継者を任命し、神は使徒をして後継者の任命、権威者の任命を余儀なくさせたことを確信している、と。統治機関が必要であることを確信しなければならない。法規範の執行機関と管理運営機関の設立のために努力しなければならない。イスラーム統治樹立のための闘いはヴェラーヤト〈統治・指導〉の確信に不可欠である。あなたたちはイスラームの諸法と社会的業績とその有益性について著述されよ。あなたたちの活動と宣伝の方法を高めよ。あなたたちにはイスラーム統治を樹立する義務があることを喚起されよ。この任務を果たすことができることを知り、自信を持たねばならない。植民地主義者たちは3〜400年前から用意した。零から始めてここに至っている。我々も零から始める。何人かの西欧かぶれや植民地主義の従者たちの騒ぎに脅えるではない。p.18(p.16)
  イスラームを人々に紹介し、もってコムやナジャフの坊主どもが月経や分娩に関わる法規範に没頭し、政治と関わらない、また宗教と政治は分離されるべきであると若者たちが考えないようにすべきである。宗教は政治から分離されるべきであり、ウラマー〈イスラーム知識人たち〉は政治社会問題に介入すべきではないと言うのは、植民地主義者たちが言って広め、信仰無き者が口にする。はたして預言者注10の時代に政治は宗教から分離されていたのか?。その時代にはある人たちが精神的指導者であり、別のある人たちは政治家や為政者であったのか?。正統であるか、非正統であるかの問題はさておき、〈正統〉カリフ〈三代〉の時代、また、〈イマーム・〉アリーが〈第四代〉カリフであった時代に政治は宗教から分離されていたのか?。〈別個の〉二つの機関であったのか?。これらの〈政教分離を説く〉言葉は植民地主義者たちとその政治的代理人たちが創りだし、もって宗教が現世的問題に関わること、ムスリム社会を形づけることがないようにし、その一方で独立や自由を求める闘士や民衆からウラマーを引き離そうとしたのである。こうして彼ら〈植民地主義者たち〉は民衆を支配し、我々の富を搾取することが可能になった。彼らの意図するところはこれである。p.19(p.16)
  もし、我々ムスリムたちが神への祈りと誓願と唱名以外に、為すことがなければ、植民地主義者たちやその片棒を担ぐ不正な諸政府も我々に一切用は無い。行って好きなだけ礼拝の呼びかけをしなさい、祈りを捧げよ、と。
  我々から好きなだけもっていきなさい。それは神に委ねられる。力あり頼れる者は神以外に無し。我らが死んだとき応報が恐らく与えられよう。
  もし我らの言葉がこうであれば、彼らは我々に用はない。(イギリスによるイラク占領時の英軍人であった)あの小男が尋ねた。ミナレットでおこなっているアーザーン〈礼拝への呼びかけ〉はイギリス政府にとって害があるか?。答えて曰く、否。彼曰く、好きなだけやらせておけ。もし、あなたたちが植民地主義者たちの政治に用が無く、いつも議論している法規範についてのみイスラームを知り、それを越えることがなければ、彼らはあなたたちに用はない。あなたたちは好きなだけ祈りなさい。彼らはあなたたちの石油を求めている。あなたたちの祈りには何ら用はない。彼らは我々の鉱物を求めている。我々を彼らの市場にしたいと考えている。このために、彼らがおいた傀儡政府は我々の産業化を阻止し、従属産業や組み立て産業をつくる。〈一角の〉人物が我々にいないことを望んでいる。人物を恐れている。もし人物が見つかればその人を恐れる。そうした人が増えることで、専制と搾取と傀儡政府の礎が打ち倒されるからである。したがって人物がおれば、殺すか投獄するか追放するか、政治的であるといって辱めた。「この坊主は政治的である」と。〈しかし〉預言者注11も政治的であった。植民地主義の政治代理人たちがこの悪意ある宣伝を使い、もってあなたたちを政治から引き離し、社会問題に介入することを阻止し、反国民(mell)、反イスラーム的で背信的な諸政府と闘うことを許そうとしない。そして彼らは好き放題をし、過ちを犯そうとも、それを止める者は誰もいない。p.21(p.17)
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